TVのインドのチャイ屋の話のつづき。
何日か前に書いたヤツの続き。インドの14才の少年5人がチャイ屋を開くという番組だった。14才で、なおかつ5人もいるとなかなか意見がまとまらない。衝突もあるけど、チャイを売るコトがうまい子がいたり、ソレゾレがソレゾレの能力・存在を認めると、逆にソレはチャイ屋を続けてく上での結束力になってるようだった。
親とはぐれて10年経つという少年がいた。チャイを売りながら両親を探す。チャイ屋を始めてから4日目に、両親の消息が人づてに分かり、離ればなれだった少年と親は再会するコトになる。
やっと出逢えた両親と少年。両親は「自分たちといっしょに暮らそう」と言う。もう離れたくないと。学校に行って勉強もしないといけない。でも少年にはチャイ屋がある。仲間がいる。少年には少年の生活がある。
少年は一晩悩み、チャイ屋の仲間と離れ家族と暮らすという結論を出した。しかし仲間が「おまえがいなくなったらチャイが売れなくなる」「この店はどうするんだ」。すっかり自信を無くして不安になっている仲間たち。
結局、少年は寸前のトコロで考えを変え、チャイ屋に残るコトにした。やっと会えた家族だったのに。でも少年は、自分が必要とされる存在なんだというコトを改めて認識し、自分と仲間たちで作り上げた店でまだまだ学ぶコトがあると考え、今の生活をしばらく続けるコトを選んだ。今度は家族に会いたい時は、いつでも会いにいけるのだから、と。
この番組を見た後、赤毛のアンを思い出した。マシュウが天へ召され、1人になるマリラにアンは自分の歩むはずだった道を曲がって(この話は「曲がり道」というタイトルだったので、その表現を使うコトにする)、ギルバードが譲ってくれたアボンリーの教師として、アンはソコに新たな希望を乗せて、マリラと共にグリーンゲイブルズで暮らすコトを選んだ。
2人の選択。人によって我は曲げられる。ようはその「曲げ方」だ。ソコをどう納得し理解して楽しむか。今は考えはまとまったけど、チャイ屋の番組を見た時、自分は目の前にある2つの道の、どっちを選ぶのだろうと思った。