右から左へ受け流してみる。
マシュウにもベスにも自分の願望の芽はある。人にこうしてあげたいああしてあげたい、という思いの芽が。だけど自分1人の思いだけではソレは頼りないモノであり、バイクで例えるなら、いくらキックしてみてもエンジンがかかるまでには至らない。ソコにアンなりお母さんなりの他人の存在があれば、ソレが自分の思いに対しての「補強」となる。自分の気持ちの強度が増す。触媒があればエンジンはかかるのだ。
話は変わって、前に現実というのはただソコにあるだけだと書いた。モノ自体は意味を持たない。人が勝手に意味付けをしてるだけである。というコトは、現実というのも人が意味付けするモノなのだから、良くも悪くも考えられる。人やモノゴトの悪い面ばかりをとかくクローズアップしがちだが(インパクトが強いので印象に残りやすいが)、逆に良い面を探して、良い面をクローズアップするコトもできるはずだ。悪い面をクローズアップして執着してみても、あんまり良いコトは無い。どちらかというと悪い方向へ自らが吸い寄せられるような感覚さえある。ならば、ムーディ勝山じゃないけど、そういったネガティブファクターは右から左へ受け流す(笑)くらいで良い。別にコレは悪いコトから目を背けると言ってるのではなく、その存在があるというコトを確認しつつも、ソレはその瞬間だけのコトにして、固執せずやりすごせばいいというコトである。固執してもソコに何もいいコトは無い。固執していれば、ただあなた自身の勝手な妄想という意味付けが膨らむだけである。
そういう風な目で人を見る。街中や日常生活の上で、何か悪いコトをしてる人や行儀の悪い人というのはたしかに目立つけど、すぐに「この人がこうしてるのも何か理由があるのでは」とか「でもこの人にはこういう良い面もあるのだから」と思考を切り替えるコトができる。雨が降ったとして、「雨が降って嫌だなー」と思う人もいれば、「雨が降ったというコトは、コレは出かけるなというコトカモしれない」という捉え方もできる。人もモノも自然である。そういう思考になれば、くだらないコトに固執させられないで済むようになる。どうでもいい些細なコトに振り回されなくなる。日々のこういった「チリも積もれば、、」的なネガティブファクターを自分の中に留めずに、最小限で済ませるコトができる。
モノだけでなく、他人についてだって勝手に人が意味付けをしている。この人はこういう人だから、と。でも他の人から見たらその人はそういう人じゃないカモしれない。同じ考えを持ってる部分もあれば、違う角度でその人を見てる部分もあるカモしれない。または相手の、他人への接し方というのも、人によって使い分けてるのカモしれない。あなたが見てないその人の部分があるのカモしれない。大体その人自身、自分のコトを100%解ってるか、と言えばおそらく解ってないだろう。そういう人がホトンドだろう。
人の目や脳というのは、実はかなりいい加減にできている。いい加減というよりは「自分にとって都合の良いつくり」になっている。その点で言えば素晴らしく精巧にできてる、と言ってもいいのカモしれないが。つづく?