「自分」は邪魔か?
もうちょっと続きます。
「自分」という意識、コレを「エゴ」という言い方に換えるコトにする。エゴが無いとすると全くの野放図状態で、いっけん自由気ままにできそうだけど、人というのは自由すぎると何をしていいのかかえって分からない。かといって自分の重力(エゴ)が強すぎると、自分に縛りつけられ身動きがとりにくい。人は自由すぎるよりは、何かしら枠なり規制なり定めたルールが必要。コレは合ってると思うのね。子供を見てごらんなさい。彼らは友達と遊んだり、もしくは1人遊びの時に必ず何かしらルールを決めるでしょ。遊びにスパイスを加える。その方が面白いからなのカモしれないけど。
「自分」と思える意識が存在する、というコトはソレは決して無駄な存在ではないのだろう。必要だから存在している。その理由は生命(肉体)維持のためにあるワケだけど、だから人も「自分」という意識(エゴ)を必要以上に強く持ちすぎるコトなく、人生をより良く、楽しく生きるためのガイドライン的なモノ、スパイスを加える程度に留めておいた方が、そのくらいに考えた方がいいのかな、と思う。
昨日「人種」という話をしたけど、赤毛のアンのマシュウしかり、若草物語のベスしかり。ワタクシもそうなので、彼らの心の動きに共感するトコロがあるのだけど、ワタクシも含めて彼らのような人たちというのは、なかなか自分事では行動しようとしない。行動できない。けれど、マシュウはアンのためだったら、どんなコトでもするし、誰よりも早く(マリラが驚くほど)行動する。ベスはお父さんのために、自分が苦手なおじいさんへお願いを頼みに行く。コレはお母さんがベスのそういった心理を理解してるので「お父様のためにお願いに行ってちょうだい。お父様のためだから恥ずかしくはないでしょ。」という諭(さと)し方でハッキリ知るコトができる。結果的には自分のため(になってる)なのカモしれないけど、こういった人たちにとっては「自分のため」よりも「他人のため」という動機理由の方が、自分の重力から離れ、行動しやすいと言える。つづく