「自分を遊ぶ」という感覚。
つづきます。
このなんとなく浮遊したような感覚。
俳優の人や旅をするコトも似たようなコトが言えるのカモしれないけど、ソレは現在の時間と「陸続き」なのでやや意味合いは違ってくるかなと思ってる。俳優は違う人物になりきって、その人物を演ずる。俳優では素の自分と明確な線引きがある。けれど役として自分とは違う人物になれるので、その役の人物の人生を遊べるコトができるとも言える。
旅をするというコトも、普段生活してる場から離れて、いわゆる日常から非日常の空間へ自分の身を置くコトによって、精神的に解き放てるモノがある。
現実と自分の距離感。今の、現在進行形の日常生活では、現実と自分との距離が近過ぎるのではないか、と思う。例えで書いた学生生活にしろ俳優にしろ旅にしろ、ソレをしている間というのは、非常に活き活きと過ごせてると思う。人間としての輝きの放ち方が違うと思う。ソレは期間が決まってるから、なのだろうか。期間が短い、もしくは「終わり」が決まってるから、その間を満喫できるのだろうか。「いつもとは違う」人生だから?いや違わない。現在進行形の現実そのモノだろう。あなたの人生だろう。
「自分」ではない、からなのだろうか?
だとしたら「自分」というのはなんなんだろう?
もし「自分」というモノが、ハドメをかけてる邪魔な存在、だとしたら。そういう面(性質)を持っているモノとしたら、その「自分」というモノを少しばかり遠ざけてみてはどうだろうか。
よく「となりの芝生は良く見える」なんて言う。自分では分からない・気付かないコトも他人が見ればよく分かるコトもある。ソレなら自分を俯瞰的に客観的に少し引いてみて、ヒトゴト(他人事)のように捉えてみてはどうか。こう書くと人によっては「自分をヒトゴトだと思うなんて無責任」と言うカモしれない。でもワタクシのような、自分と現実が近すぎる・密着してるような人にとっては、少しばかり無責任になる必要もあるのだ。ガンダム的に言うと「自分という重力に捕らわれている」というコトになる。重力が強すぎるのだ。そういう人種は居る。そういう人たちにとっては、少しばかり現実と自分との距離を持たせた方が、この世が生きやすくなる。
そういう人たち、というと逆にもともとそういう考え方を持ってる人もいる。音楽の世界で言うと、知る人ぞ知るハッチハッチェル師匠とかヨシモさんとか。音楽をやる人はもともと頭がやらかい人が多いが、素の時の師匠はどういう生活をしてどういう人物かは知らないが(詮索しようとも思わないが)、音楽活動をしてる時の「あの人」というのは全くもって陽気で愉快な人物である。先ほど書いた「人間が輝いてる」ワケである。アレはまさに「自分を遊んでる」のではないか、と思うのだ。コレはたぶんセンスの問題なのだろう。生き方のセンス。
何かキャラを設定してそのキャラを遊ぶコトによって、逆に自分というモノを出すコトができて、自分が(全てとは言わないまでも)満たせるのなら、ソレには意味があると言える。ようは自分のみ、だけだとフワフワして不安なのかな?人というのは、あまりに自由すぎても不安で何をしていいか分からない。何かルールや枠を決めた方が、逆に伸び伸びできる。俳優の役なり何かキャラなりという、レールというかルール?決まりゴト?みたいなモノがあった方がソレに寄り添えて、逆に安心して自分を出せるのだろうか。いずみさんが今、外から見て幸せそうに思えるのは、やっぱり旦那さんがいるからだと思う。女性はとくにそうだと思う。1人でいる時より2人でいる方が、ソレも女友達より彼氏といた方が伸び伸びしてる。安心して戻れる場所があるから輝けるのだろうか。つづく