自由について。
ワタクシたち人間の目に見えるモノはごくわずかに過ぎない。もっと厳密に言えば、目に入ってきた光(周波数の違いが色の違いとなる)が視神経を通り、脳が像として処理してくれる。ソレを人間は「見る」と言っているに過ぎない。そして実際は人間には「錯覚」というモノがある。見ていると感じているだけで、ソレは自分の脳が作り出した虚像に過ぎない。ソレはさておき、というコトは我々人間が見えない様々なモノが存在する、というコトであって、見えないモノが存在したとしても何らおかしくはない。原子が見えるか?と言えば肉眼で見るコトは不可能である。
分かり易い例で、ブラックホールというのが宇宙に存在する。ブラックホールというのは光はもちろん、時間まで吸いこんでいると言われている。星の一生の中で、星が膨張から収縮に転ずる時期がある。星が収縮を始めるのは、自らのエネルギーが持つ重力によるモノで、収縮をするコトにより、エネルギー自体が非常に圧縮されたモノになる。その圧縮されたエネルギーの巨大な重力によって、光がねじまげられる。やがてねじまげられるドコロか吸いこまれるほどの重力になる。光でモノの存在を認識する我々人間は、ブラックホールの存在を見るコトはできない。しかしエネルギーを感知する機械を用いるコトで、ブラックホールの存在を知るコトができるというワケだ。
話変わって自由な世界というのは、誰かが搾取し誰かが搾取される世界だ。ソレが許される世界。規制がない、だから自由。誰かがお金持ちになれば、誰かが貧困にあえぐ。お金の総量が一定ならば、そーいうコトになる。今はそんな二極化がより顕著になっている。例えば中国。中国という国は、ほんの一握りの大金持ちと数多くのそうでない人たちとに分かれるという。
ヨーロッパの島国でテロがあったと報道された。テロには屈しないと反対する国々。そんな国々のリーダー的存在の国は「自由」を象徴に掲げている。正義とは何か。テロをする国にとっては、自分らのした行為は「正義」だと思っている。それぞれの「正義」に対する定義が異なる。
つい最近本でこんなコトを目にした。アメリカは「宗教」が人々の絶対的な存在・真理になっている。一方、日本は「規範」がそーいう存在であり、規範というのは大元には「魂」がある、という前提があるというような文だ。規範というのはまわりを気にして、つまり環境の中の自分。日本人は人目を気にして、アレをやっちゃいけないコレをやっちゃいけない、となり一方アメリカの人は神様の教えに背いてはいけない、というコトになる。なので日本人から見れば彼らは人目を気にしないで、自分を主張してなんかのびのびしてていーなぁ、となる。自分らは人目を気にして、なんかちぢこまっててヤだなー、となるのは根本的な違いがあるからだ。
完全な自由、なんてのはない。誰かが自由になれば、必ず誰かが不自由になる。今あるソレを誰かが横からかっさらえば、誰かが泣く運命にある。質量保存の法則に則るとするならば。いやその「不自由になる」というコトすらひっくるめて「自由」だ、とも言える。ソレが自由な場、自由な世界。自由というのは何も「解放系」ばかりではない、というコトである。ならばいっそのコト、規制されてみんな平等の方がいいのではないか、という考えもある。かのお隣の国のトップの人たちも、ひょっとしたら他の国々、とりわけ自由を象徴とし、正義を振りかざしている国について「野蛮だ」と思っているのカモしれない。自由というのはキレイに光り輝く方向ではなく、弱肉強食の野蛮な世界を言うのカモしれない。たしかに動物の世界は我々人間世界よりは自由である。
ところが、幸か不幸か彼ら動物よりも知恵を与えられたワタクシたち人間が、より人間らしく、彼らより一歩上に立つとするならば、搾取したモノを分配するコトである。大金を手に入れ大金持ちとなったなら、かたや必ずいるであろう貧困にあえぐ人たちに、自分が搾取したモノを分かち合うコトである。別にソレはお金という直接的な形でなくても、いろんなコトが考えられる。「分かち合う」というコトが我々人間が動物でなく、人間である尊厳であると思う。そこに一筋の光が差し込んでくるように思われるのだ。ソレが規制を敷かなくても、我々のココロに自由を勝ち取るコトにつながるとワタクシは思う。