人間はSMがデフォルト。
だから瞑想て心を静めて(鎮めて)リラックスを得る、てコトなんだろね。
昨日のつづき。ブログ書いたあと思ったんだけど「幸せ」の「幸」て字は「手を縛られてる」という由来があるというのを聞いたコトがあるんだけど、ようは「幸せを追い求めるコトに囚われる」ていう執着のコトを言ってるワケだな。昨日の依存とか中毒とか快不快のハナシにつながるんだけどさ。「幸」と辛いの「辛」も棒一本のちがいしかないんだね。紙一重なんだよ。
で、人間てのはSM的な欲望を内在してるよな、と。とつぜん「SM」とか言うんだけどさ(笑)。
ストイックな人ているじゃん。禁欲的ていう。ああいう人は自分を律してるワケだけど、ソレてマゾヒズム的でもあるしサディズム的でもあるよね。自分に対して。ようは「ひとりSM」なんだよ。自分を律して、言葉変えれば自分をイジめて、不快が快に転ずるというね。でもすべての人間、とくに日本人のココロには「SM」が内在されてるんじゃないか、と思うんだな。ある程度のS(不快)は心地良い(快)というか。「痛気持ちいい〜」みたいな。たまに行き過ぎるというのもあるんだろうけど。
だから人間がこの世でこの星に生まれ生きるというのも、身体という制限があって(そもそも肉体というモノがある時点でリラックス(解放?)してない、と言えるのではないだろうか?)、思考を実現させるには行動をともなうという3次元的な行為をワザワザしなきゃならない、というのはより高次元の存在からすれば「はぁ〜まぁーよくやるよ」という、なかば呆れ気分の、とてもチャレンジングなコトなんじゃないかと思うんだな。そういう存在からすれば不快でしかないと思うんだよ。ワタクシたちがロッククライミングとか、はたまたエベレスト登山をする人を見るかと同じように「なんでそんなコトすんの〜??」と。でもワザワザこの世というかこの星でそんなコトをやってるワケだから、コレはもうそもそもが、人間には「SM」がOSとして組み込まれてるんだろな(笑)。