ソレが人間なんだモン。
オボカタさんのSTAP細胞のように、長年の研究が花開いて実を結んでソレが世に広まる、というのはソレは幸運というか。世の中には1つのコトを深く追求してもなかなか花が開かず、ましてや世に出るコトもままならない、そんな人の方がきっと多いだろう。オリンピックというのも、あの場に出るコト自体、ほんの一握りの選ばれし存在だ。
1つのコトをやり続けるのはリスクが伴う。そんなようなコトを誰かが言ってた。たしかに1つのコトが花開いて、世に知れ渡ればいいけど、そうでなければ1人の人の人生を棒に振るようなコトになってしまう、そういう可能性も大いにありえる。そしてそっちの方が、この世の中的にはたぶん多い。だけど、だからといって、ソレをやめるワケにはいかない。
内田樹せんせーの著書『知に働けば蔵が立つ』にこんな一節がある。
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どんな領域の研究者でも「この方向に行けば答えに出会える」という直感に導かれて研究を行う。この直感が訪れないものはそもそも研究を始めるということができない。(P.159)
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ワタクシたちは未来を知っている。知覚する。だけど確証がない。全ては「なんとなくそんな気がする」だ。「そんな気」だから他人に問われても理由なんか言えない。でも絶対!、、、できる、と思う。ソレを確かめたい。そうすれば人に「こうだ!」と説明ができる。でもソレにはとても長い道のりを要する。
『直感に導かれて』の「直感」は自分に限ったコトではない。自分は何もこの先分からなくても、他人が感じるコトがある。「こいつは必ずいずれこの分野を担ってく存在になる、、!」。オリンピックではそういう師弟のような関係がたくさんあるのではないだろうか。おそらくその道の先を行く年長者とか、ソレなりにキャリアを重ねた人が、若い子たちを見て、その眠っているだろう才能を見出す。そんな瞬間が過去にあったはずだ。こいつは世界で活躍する逸材だ、と。
才能を見抜いた人たちの役目といえば、そのいまだ才能が眠る若者に、できるだけ良い環境を与え、道を切り開いてあげるコト。たとえば近くに練習場がなければ、隣町の練習場にクルマで送り迎えをしたりするなど、その若者だけではどうにもならないコトを大人がサポートする。その若者がやろうとしてる限りは、ソレをできるだけ、精一杯サポートするのがそういう人の役目だ。
ソレは先に書いたように、ある意味「賭け」だ。もしかしたら才能が花開かないカモしれない。ケガも病気もあるカモしれない。あまりに長い時間かけ過ぎたあげく、その若者の人生を棒に振るようなコトにつながるカモしれない。ソコはある種責任も伴うだろう。ソコには才能を見抜いた者の覚悟がある。そしてその若者も、自分が感じてる「なんとなくの未来」と、自分の才能を見出してくれた人を信じてついていく。別にオリンピックや研究だけに限らない。日々の些細な1つ1つの出来事、ちょっとした会話の中にも、いくつもの人生上の分岐が潜んでいる。
人生はその時正しいかどうかなんてわからない。ソレは終ってみて初めて分かるコトなのカモしれないし、終ってみてもやっぱり分からないカモしれない。でも初めから何もカモ分かってるのなら、ソレはやっても意味が無い。面白くない。分からないからチャレンジのし甲斐がある。未来が未知だから、人はチャレンジできるのだと思う。そしてソレが人間なんだと思う。
♪ソレが人間なんだモン ソレが人間なんだモン
for beautiful huーーーman life
human life
全ての美しい人生のために!
全ての素晴らしい人生のために!
なんかアコギでざくざく弾くような感じの音で(笑)。いずみさんの『平成』みたいな。ハープ吹いてもいいな。テンポもあんな感じで。またはもっとスローにしてファンキーな感じにしてもいいな。
おそまつ!