閉ざされた空間にて。
ま〜た人身事故があった。30分以上電車内に閉じ込められる。ちょうど学生の帰り時に出くわして、車内は小中高大学生全部揃ってて、おまけに年配のご婦人方もいて老若男女バラエティに富んでる。
だもんだから、小学生約3名(おそらく1年生)なんかはじっとしていない。ワタクシのはす向かいの席でもうすでに停まる前から騒がしくしてたのだけど、、と言っても特に「目に余る」というほどワタクシには感じられなく、「元気だねー!」ぐらいの感じで悪い気はしてない。まーコレ以上になると「度が過ぎる」になるだろうけど、ソコまでにはならない程度。でも彼らの向かい側に座ってるご婦人方にとっては「目に余る行為」カモしれないが。このくらいのコらは男女性別はあまり関係ないトコロもあり、男の子女の子いっしょになってじゃれあってる。
電車が動く気配もないので、アレコレ考えゴトをしたりしてやり過ごしてると、しばらくしてその子たちのはしゃぐボリュームが小さくなってるのに気づき視線を移すと、小学生たちの隣に座ってる女子大学生(たぶん)のノートかなんかを見て「うまいね、おねーちゃん」とか何やら言い合ってる。どうやら女子学生は絵を描いてあげてるらしい。そしてまた女子学生&小学生の向かい側のご婦人たちから「いいお姉さんね〜」とか言ってるのが聞こえてくる。ようは女子学生が自分のノートかなんかに絵を描くコトで小学生が騒ぐのを止めた、というコトになる。
コレて素敵だなぁと思った。だって小学生たちに「静かにしなさい!」とか言うでもなく、なのだから。
普通だったら「静かにしなさい!」とか「否定の言葉」でしょ、おそらく口をついて出るのは。でもごく自然とね、いや自然かどうかは分からないけど。意識的なのか、結果的にそうなったのかは分からない。けど、ワタクシにはごく自然なふるまいに映ったな。こういうコトがスっとできるのてスゴイな、と思う。
ひょっとしたら、この女子学生はそういう環境にいるのカモしれない。妹をあやしたり、または過去にそういう境遇にいたり。もしくは今小さい子供が身近にいるような環境、そういうのがあるのカモしれない。だから女子学生にとってはごく当たり前に、自然にそうしただけ、なのカモしれないけど。
田舎だとこういうのは当たり前な光景だと思うのね。「上の人が下の子の面倒を見る」てのは。でもこういう都市部だとなかなか、、見ないよね。みんな何らかの、ケータイとかゲームとかの画面ばっか見て、下を向いて、自分の世界に没入してる。外部の遮断。でも女子学生は持ってるモノを「紙」にかえてコミュニケーションの道具にしてる。開放性と閉鎖性。そんな言葉も浮かんでくる。
こういう閉ざされた空間では、だんだんイライラしてくるモノなんだけど、フっと和んだな。癒された感じ。いいもん見たな、という気分。
どうせ彼女らはやがて電車が動き出して、ソレゾレが降りるべき駅に着いたら「じゃあね」「ばいばい」。ソレゾレが違う方向へ、向かうべきトコロへ向かう。そんな束の間の間柄でしかないのに。一期一会でしかないのに。でも小学生の子たちは、家に帰ったらきっと今日のコトを話す。その時、隣の知らないお姉ちゃんが絵を描いてくれたコトも。ひょっとしたら、何かが残っていくのカモしれない。小学生たちが大きくなった時に、同じような場面に出くわした時に、立場を代えたデジャヴのように、彼らのふるまう行為が違ってくるカモしれない。
「人生て山登りだ」ていう漫画を、ちょうど午前中読んでた。人生は基本キビしい。キビしい山登りに似ている。山を登っていると、やがて限界が訪れてきて「も〜ダメだぁ〜!」と思うけど、そんな時にフト足元に咲いてる花を見たり、目の前に広がる景色を見て、疲れが癒される時がある。そしてまた頑張って登ろうという気になる。道中がキビしいからこそ、何でもないモノやコトが輝いて見える。そんなコトを思い重ねた。
♪♪♪『福笑い』/高橋 優