やっぱり贈与社会の方向に進むのかなぁ?
昨日発売の週アス(週刊アスキー)をパラパラ見てたら、樋口真嗣(シンジ)監督のコラムにも昨日のT氏と同じようなコトが書いてあった。ただお二方の心境は違うのだけど。樋口監督は今まさに「進行形」なんだろなという感じで嘆いてる。ただT氏はすでにソコは通り過ぎて、その世界から早々に引き上げちゃったというコトだ。
樋口監督は自分たちの作ってるモノは無価値なんじゃないか?とちょっとこう疑念みたいな、怪しい風が吹きつつあるワケですな、ココロの中に。だって自分たちの作ったモノが無料でサクサク取り込まれたらね、そりゃ自分たちの作ったモノの価値て一体、、という心境になってもオカシクはない。「価値がある」と評価されてないてコトにつながっちゃう。そう認識してもオカシクはない。ソレでモノを作るモチベーションが保てなくなる人もたくさん出るでしょう。かたやT氏みたいに頭切り替えて「たくさんの人が使ってくれるてのが楽しいコトじゃない?」て純粋種(笑)の「職人」になる人もいるんだろうけど。
昨日は作る側からの視点での「価値」について書いたけど、まぁどっちかっていうとユーザー、消費者側が「価値」づけるのであってね。評価てそういうモノでしょ。だからいくら作る側が「コレは世に出す価値あるぞー!」と言っても消費者側に価値が無いと判断されてしまうコトもあるワケだし。
でも昨日書いたようにミュージシャンの人がネットで直販して、お金をもらってていうそういう形をとってる人もいるワケだ。振り込んでもらったお金で生活してるらしいよ。そういうのって結局「お金払いたい!」て思う人がいる、てコトでしょ。ちゃんと価値を認めてる。ワタクシだって「この人ならお金払いたい」と思う人はいるし。そういうのはあるんだよね、気持ちとして。
まー無粋なコトを言えば、そのお金がその人の生活に直結してるワケでしょ。コーヒーでも(コーヒー以外の農作物でもそうだけど)フェアトレードていう言葉があるのね。生産者の暮らしを支えるために、ちゃんと生活していけるように適正な価格を支払う、ていう概念。自分たちの作ってるモノに適正な価格をつけてくれれば、作る方だって「よし、次はもっといいモノを作るゾ!」てなるじゃない。ソレが好循環につながる。情報てのは消費されてくけど、日本人もそろそろそういう考え方は必要だろね。いかに遠くの隣の人を身近に想うかなんだよ。イメージだ。
ワタクシは内田樹氏のブログを読んでるけど、内田氏は自分のブログに書いたコトはいくらでもコピーしていいよ、ていうオープンスタンス。だからワタクシもリンクしてるんだけど、でも何故だか内田氏のブログをコピーして本を複製して販売する人はいないらしい。彼自身たくさんブログ本出してるのにね。結局は切り口の問題で売れてるんだろうけど、内田氏も贈与社会になってくんじゃない派なのね。もうリーマンとかで崩壊してるからね、いわゆる今までの資本主義というか経済は。だからT氏の記事を見て内田氏のスタンスが理解できたんだけど、ジャンルは違えどソレゾレの世界での最先端にいるお三方がくしくも同じコトを言ってる、てのはやっぱり次の形態てのは贈与社会(経済じゃなくて)の方向に向かうんだろかね?と思った次第でありまーす。