『Zガンダム 〜星を継ぐ者〜』を観た。
今は動けない それが運命(さだめ)だけど あきらめはしない もう目覚めたから
揺れるときめきは 未来を映し 色鮮やかに 燃えさかる炎
↑の文は『Z(ゼータ)・刻(とき)をこえて』(TV版Zガンダム1・2クール主題歌:二ール・セダカ作曲)の歌詞。映画版はガクトが映画用でまったく違う歌を歌っててソレもいいのだが、やっぱりリアルタイムでTVのZガンダムを観てたモノにとっては、この独特でスタイリッシュでかっちょいい曲、あと後半3・4クール主題歌『水の星より愛をこめて』がコレまた二ール・セダカ作曲の切なげな名曲(この歌で森口博子がデビュー。ちなみに彼女のデビューイベントを観に行ったコトがあります:笑)がゼータという感じ。
今回観に行った映画版Zガンダムの正式名称は『Zガンダム NEW TRANSLATION 〜星を継ぐ者〜』で新訳Zガンダム、という意である。何故に新訳なのか?というと、TV版は20年前、1985年に放送されたのだが、富野監督が描きたかったコトが2005年の今という時代を考えると、20年前ゼータで表現すべきコトが表現しきれてなかったというのが20年経って分かってきた、という監督自身が汚点と考える部分を修正したい、というコトとあとはたぶんだけど、ゼータ以降ガンダムストーリーがたくさん現れ、しかし当時はその存在について知る由も無いと。ソコであとのガンダムストーリーの流れに違和感無く続くようなゼータという作品の立ち位置、というのを再定義する必要性が出てきたんだと思う。簡単に言えば、あとに続く作品に設定の破綻がないように、というコトだとワタクシは思う。「Z・20年の刻をこえて」ですな。
メインストーリー自体はTV版そのままで、細かい脚色やら新たに追加された場面などはあった。話の冒頭、コロニーに乗り込むクワトロ大尉のリックディアスがトリモチランチャーをピュなんてトコロまで断片的にTVで観た場面が思い出され「なつかしっ!」と思った。説明を加えると、最初のガンダム(ファーストガンダム)の主人公アムロと、アムロに敵対するシャア。ゼータは彼らが戦った「一年戦争」の7年後、という設定で、クワトロ大尉というのは仮の名で実はシャアなワケ。ゼータは主人公にカミーユ・ビダンという男の子がいるのだが、もう1人、裏の主人公がこのクワトロ・バジーナa.k.a.シャア・アズナブルというワケ。なので説明はハショるけど、あとあとアムロも出てくる。ブライトもフラウもカイもハヤトもカツ・レツ・キッカも。ただ彼らはもういっしょに戦うのではなくソレゾレ別の場所で、別々の立場で。TV版ではアムロとシャアの構図てそんなに前面にプッシュされてなかったと思うんだけど、今回の映画ではアムロがカツに則されて、幽閉生活から抜け出したりする場面が追加され、映画はかつて戦った者同士、アムロとシャアが再び出会って第1部完、という具合。とにかく話の展開がはやっ!。まーTV放送13回分だっけ?を90分に収めているんだから、ほとんどダイジェスト状態にもなるわな〜と。ハッキリいってTV版観てないとサッパリ分からないはず。
第1部、というコトは当然第2部があるワケで第2部ではとうとうフォウが出てくる。悲しいですね。悲しき殺戮兵器ですよ。カミーユと心を分かち合いながら、しかし2人は戦わなければならない。ゼータはめっちゃ暗い。その重さ・沈鬱さが良かったんだけれども、今回の映画版ではカミーユにしろアムロにしろシャアにしろ、みんな瞳が澄んでいる。コレがゼータという重苦しいストーリーの中に一筋の光を投げかけている。今という時代を考えて、コレが監督の新たにゼータに付け加えたかったコトだと思うね。
監督は全く感知してない作品の『SEED』があったから、やっとこーしてゼータに光を与えるコトができるんだとワタクシは思うね。まだ全部観たワケじゃないから言いきれないけど。『SEED』てワタクシはファーストから言いたかったコトが言えてなくて、今1つ抜けきれてなかったコトが『SEED』でやっと言葉にできた、1つの解答が得られてソレを言えた、そんな作品だと思う。アレが言えたから、、てのがあるなぁと、たぶん監督は『SEED』観てないんだろーけどね(笑)。勝手な思いこみだけどね。