掲示板(BBS)について決着!?
「ルールの共有が難しい他者と共存することをどう考えていくか」
「近代人は「優しい」から他者に儀礼的な無関心を装うのではない。そうではなくて、第三空間の不気味さ、自分の行為・振舞いがどのように理解されてしまうかが極めて不明瞭であることに耐え切れないからこそ、儀礼的な無関心を貫こうとするのである。」「コミュニケーション接続への不安(「届いているかもしれない」「届いていないかもしれない」)に対する人為的な処方箋なのだ。」「公開性と公共性が齟齬をきたす」「不安はどこまでも消え去ることはない」
「2chはとにかくそういうカリスマに対してやはりものすごく反発します。どんなカリスマでも叩くでしょう。無条件で肯定された人って見たことないですし、どんな場であれ少しでも肯定的な発言をすると「信者だ」と騒ぎ立てて必ず引きずり下ろしてしまう。」
「人類誕生以前は、誰も病死しない世界、誰も殺されない世界であり、人類絶滅後以後も、誰も病死しない世界、誰も殺されない世界であるからだ。ユートピア主義者は生命や環境を守ると称しながら最初から最後まで否定しているのである。」「人間の感覚は、基本的にはウィルスの力に対する反応を感じるに止まる。発熱や下痢といった症状はあくまで反応だからである。それでも、感染を被ることは生きる力の反応であり。生きていなければ不可能なことである。」「バリアフリーも流行ってます。これにはほとんどの人が賛同しています。反対するどころか、疑いすらもってはいません。でもそれでいいのでしょうか。七〇年代の障害者自立運動は、車道と歩道の段差はあってもいいんだと主張したことがあります。」「目につくバリアを除去するだけでは、障害者差別が社会の中で構造化されていることが見えなくされてしまうということです。」「駐輪規制で騒ぐのではなく、車道を一車線、車椅子と自転車に解放すればいいのです。段差をなくして坂にするよりは、むしろすべての交差点で横断歩道を歩道に合わせて高くすればいいのです。」
「監視されて安心し、排除して安心する、そんな生活のどこが楽しいのでしょうか。不安を掻き立てられ、良き市民生活の維持に汲々とする、何が悲しくてそんな人生を送るのでしょうか。緑溢れる小奇麗な牧場で保護され配慮され飼育されることが、一体どれ程のものなのでしょう。」「ネット社会というのは、全くの赤の他人とコミュニケーションを結べるような、外に広がった開放的な世界と思われていたでしょう。それが、人を開放するどころか、むしろ包囲してしまっているという感覚の方が強まってきている。」「では、その閉鎖的な共同体、包囲社会から抜け出すことはできないのか。」
「能天気でいることによって、包囲社会から抜け出すことができるというんです。つまり、能天気というのは一種のサバイバルの手段というわけです。精神分析的に言えば、徹底的に「無知」になれということでしょう。知ることえを積極的に断念すること。それが包囲社会、ネット社会で生き抜くための必須条件であると。」「情報を遮断することによって、妄想することから逃れることです。この場合、情報をゼロないしは過小にするということは、決してただ単に貧しさを選択するということではなくて、むしろ何かを豊かにする前提なのだと思います。」
「それが、今日ではそういう健全な形での抗議、紛争が起きにくくなった。結局密告に頼ざらるを得なくなったということはあるかもしれません。一方でカウンタビリティとか情報公開とか言われているのに、ますます閉鎖的になっている面もある。」
引用としてはこんなトコロか。つらつら打ちこんできたコトに目を通して頂いた方には、大体ワタクシの言いたいコトが伝わったか、と思います。あまりの物量で断念された方もおられると思いますので(失礼しました)まとめます。
人というのは情報を発信する側、ソレを受け取る側、そのコトを抜きにしても千差万別。感じ方・考え方が多様。極端に言えば生きてるだけで迷惑をかける。誤解を招く。その千差万別さが良い方向に行ってお互いに刺激しあえれば問題ない。そーいう「化学反応」みたいなのを期待して、少なくともワタクシなんかは書きこみしにいくわけだけど、結局コレはワタクシも含めてだがそのあまりの「千差万別」さに困惑してしまう。自分の許容外のコトがでてくるわけで、ソコのハードルの高さも人によって様々。顔が見えなく、画面上の文章だけがその人を表現してる唯一のモノなのでより一層個が浮き彫りに、ズームアップされてしまうわけで、その「くどさ・不気味さ」に対し人によっては拒否反応が出てもおかしくはない。
そこをいかに寛容でいるか。それとも規制をキビシクするのか。排除するのか。見る、という行為をしないか。ソレは各人の選択によるトコロなのだが、ワタクシは我々が生きている現実社会よりも「見たくないのに見せられる」というネット社会の現状を考えて「寛容」でいたい。
いたい、というか掲示板の書きこみで誰かの考えを変えたりとか基本的にムリね、というのも解った。何か言ったからてじゃーその人が明日変わるかと行ったらシンプルに考えてもありえない。ソコはあきらめた。ただワタクシのスタンスとしては、世の中のスミッコの方でこんなコト考えてるヤツもいるんだよ、ある人にとってソレが選択肢の1つにでもなってくれれば良い、てだけのコト。そのくらいは掲示板に対して信じたいよなぁ、と思ってる。信じさせてよぉ、と。
で最後に「提案」。今、掲示板というのは「見たくないのに見せられている」という現状がある。コレを情報の受けとり側で「見ない」ことを選択できれば、と思う。誰かがが誰かの書きこみに対して削除してくれ、と管理者に言ったとしても、削除するかしないかは管理者の考え次第によるトコが大きい。ソレは「権力」と考えるコトもできるしそのコトが「精神的負担」とも言える。ソコをこの人の書きこみは見たくないからとソコの部分だけ表示的に隠すなり、ブラックアウトするなりして見る側に「見ない」コトを任意選択できる権利が与えられれば、ソコからはその人自身の判断だし、管理者側はその負担がなくなるコトでもーホントに裏方の「管理」に徹するコトができる、と思うのである。
2画面方式にすればいい。今までの掲示板と画面切り替えでソコの掲示板に書きこみした人のハンドルネームがずらーっと書いてある画面と。その画面はHNだけなので別にプライバシーがどーのというコトもなく、ある任意の人をクリックすれば、その人の書きこみは見れない、という寸法だ。だから基本的に「削除」は存在しない。そりゃあんまりな表現は消すしかないが、あとは野放しでOKだ。だから寛容で大丈夫!という人は全部ありのままを見ればいいし、見たくなければ例え話しがつながんなくても「見ないだけマシ」というコトで納得してもらう。ひょっとしたら存在するのカモしれないが、技術的に全然ムリなコトじゃないでしょ、と思う。
掲示板→ブログだとやっぱ一足跳びの感がぬぐえない。ブログというのは見る人は「この人のブログ見よう」と自発的な行為。掲示板は見たくない人も見せられる。その間に位置するモノとして「見たくないものは見ない」を選択できる、もう1歩進んだ掲示板ができればな、と。
えらく長くなったけど一応こんなトコで終える。せめてコレと⑦だけは見て欲しいな、と思う。何でこんなに執着もって書いてるかというと掲示板というのは「共有する場」であり、ソレは店にも通ずるからで、結局社会学なんですね。面白いコトにこの『談』という本の発行が「たばこ総合センター」というトコロで(笑)なるほどな〜と思った。この「たばこ」と「共有する場」についても一言あるので近々書きたいと思います。