好奇心と不安。
ジェネシスの発射を間一髪で阻止し、宇宙空間に投げ出されたキラ。ストライクルージュのコックピットハッチにアスランとカガリ。3人は互いに涙を流す。その涙はなんのため。お互いにまた生きて出会えた涙か。ソレとも再び生き続けなければならない運命に対しての、涙か、、、。
今さらながらだが、「ガンダムSEED」の再放送が夜中にやってて、火曜に最終回だった。なかなかドラマやらアニメやらこーいう連続モノは見ないんだが、見てみよーかと思ったらノメリ込んでしまった。なんだガンダムか〜とバカにできない、ソレだけの主張がこの作品にはある。
人はどれだけの犠牲を出せばいいのか。気が済むのか。人というのはバカで愚かな生き物だ。ホントに最後の最後、寸前までにならないと気付かない。いや、とっくに分かってるはずなのに行動を止められない。ソコで戦いの、憎しみの連鎖をもはや止められないとして行くトコまで行ってしまえ〜となる者といやソコで気付いたなら止めるべきだ、と考える者がいる。
ただ止めるべき、と考えてすぐに止められるほど簡単ではない個々の事情がある。自分の愛する者が敵に殺された、、。ソレでも構えた武器を手放すべきだ、と。やられたからやり返す、力を同じ力で返しても愛する者は帰ってこない。その構えた武器がまた、誰かの愛する者の命を奪うコトになる、、。
人間は母親の胎内で安心している。ある時あの、眩いばかりの「白」の世界へ飛び出さないといけない。たぶん世界一不安だ。人生の中で一番初めに味わう感覚だろう。人が最初に感じる感情は「不安」である。そしてこの世に産まれ出て、この世のありとあらゆるモノに興味を持ち出す。コレが好奇心。好奇心と不安は常に表裏一体である。
好奇心があるから欲がでてくる。何かに期待して、何かを差別し、何かを奪い取ろうとする。戦いを起こす張本人はスベカラク欲張りだ。あいつのアレが欲しい、アソコのアレが欲しい、と身の丈以上のモノを欲しがる。
人間が生きてる価値が無い、としたら何故我々はこの世に生を受けているのか。何故この「人間」という種が存在するのか。
生きる意味、ソレはソレを探すために生きてる、と言うしかない。死ねないから、死ぬのが怖いから生きてる、という人もいるのカモしれない。だがそんな人生何になる!というのだ。どうせこの世に生を受けたなら、あとで「自分の人生、まぁ良かったかな」と思えるような人生の方が良いではないか。
たしかに生きてても9割がたはつまらない、パッとしない日常だ。自分の人生、戦争の真っ最中という人も世界にはいる。ソレが日常という悲しい世界。ソレでもキラは言う「それでも守りたい世界があるんだ!」。
キラの乗るフリーダム、アスランの乗るジャスティスは敵MS(モビルスーツ)の手足をもぎ取る。けしてコックピットは狙わない。破壊しない。このコトが何を意味しているのかを敵側の操縦士たちは考えなければならない。気付かなければならない。「敵」はドコにあるのか?「敵」は誰でもない、己の心の中にある。心の闇に負けてはいけない。その闇が己の手に相手の命を奪う武器を持たせるのだ。生きる、というコトはある意味、戦いである。生きる、というコトが我々人間の存在意義なのだ。
ファーストガンダム、Z、で言えなかった、描かれきれてなかったコトがこのSEEDでやっと表現できたような印象を受けた。この作品は「今の子たちへの『ファーストガンダム』だ」という意気込みに納得した。たしかにそのくらいの情熱を持って作られていた。とにかくシビレます。アニメとかガンダムとかかんけーなし。最低30話から見て欲しいよね。失意のどん底に落ちたキラに出会うラクスと、そのラクスの言葉で目覚めるキラ。時を同じくして、敵MSの銃口がアークエンジェルのブリッジめがけて今まさにビームが放たれるその時、上空から一筋の光が、、、てあの場面はフルエル。。何度見てもね。