言葉は「容器」である。②
ジャック・デリダという哲学者がいる。あのーココでヒトツ断りを入れたいんだが「哲学」だからといって引かないよーに。哲学とは全く無縁の世界にいる人にとっては、難解でワケワカランという認識でしかないだろう。ワタクシも似たようなモンだった。
まだ特に意識して言葉やコミュニケーションを探求してない6年前の1998年、立ち読みで頭ん中「?」マークいっぱいにして、でもナーンかじゅーよーなコトがかいてあるのではナイカ、、という考えが頭のすみっこをよぎったので購入したジャック・デリダについて書かれてる本。その時は全然理解できなかったけど、半年ぐらい前に読んだらノロノロ読みだけどナントカ半分ぐらいは理解できるようになってた。
ワタクシは哲学や宗教というモノは自分がいよいよ精神的に倒れてしまいそうな時にすがるモノと位置付けてるので、コレらに答えを求めるのは安易だ、という考えを持ってた。今でもその思いはあるが、でももーこーいうモノに100%振りまわされる年齢でもなくなったので、改めて読んでみたら自分の考えとかなり一致して、よりグレードアップされたコトがソコに書いてあるので「そーでしょそ−でしょ!!」や「ふんふん、なるほどナァ」なんてなかば興奮気味で、あるていど理解できるようになってた。
哲学というのは宇宙の存在とかとおんなじで、突き詰めたトコを探ろうとすると「神様」とか「未知の力」なんてのをを持ち出さざるをえない。逆に言えばそんなコトで結論はナントナークわかってるのである。ただソコへ安易に収束するのでは芸が無いのでアレコレこねくり回すんですな。だから哲学は「言語ゲーム」だ、というコトも言える。このこねくり回しを楽しめる人と楽しめない人がいるわけで、ワタクシは楽しめるよになった、というコト。
言葉は容器だ、という考えはデリダによるモノで、ワタクシはもともと「言葉は不安定なモノ」という認識のトコロまでは行ってたので、このデリダの考えに「おおー」と思いスンナリ理解できた。
他にもデリダはまだPCでメールやインターネットを誰もが手軽にできるなんて想像してなかった1970年代に既にこのネットワーク空間のコトを「郵便空間」と名づけている。メールなんて手紙・葉書でズバリである。そして文章のやりとりで生じる誤解のコトを、間違って配達されたの意で「誤配」、この誤配により本来配達されるべき事柄が配達されないで、このネット空間をさまよってるその有様を「幽霊」としている。こう書くと知る人ゾ知る士郎正宗氏の「攻殻機動隊〜ゴースト・イン・ザ・シェル」を思い出す方もいるカモしれない。ワタクシは観てないんだがひょっとしたらつながってるのカモな。
今はこのPCがあるから非常にわかりやすいモデルがあるわけだが、デリダがコレらを考えてた時代は手紙か電話なわけでPCはない。デリダは何故こーいう発想をしたかというと「古い書物」の存在からである。つづく。