言葉は「容器」である。①
このブログ日記書き、というのも気がノッテル時とノッテナイ時があり、ここんとこノッテナイ。でノッテナイ時は出し惜しみしてるモノを出しちまお〜というコトで言葉について。この「言葉」についてはひょっとしたら隠れライフワークなんじゃナイカぐらいな勢いなんでツバ散布して語りまくりまする。
ワタクシは口下手だ。このtodayだけ見てるとさぞおしゃべりヤロウなんだろーと思われるだろが、コレは「文章」だからなのだ。ワタクシは即応力がなく言語処理速度がアリさんぐらいなので何か言われても「、、あ」とか「、、う」で終わって笑ってるというケースが多い。その話に興味がないとかそゆわけじゃなく、ただ言語翻訳がままならないだけなんである。自分の考えをできるだけ的確に言いたいのでお茶濁しをしたくなく結果何も言えてない。ワタクシにとって風呂場は「反省の場」であり、ソコでああ、あん時あー言っときゃよかった、あー言ってればもっと気が利いてタナ、、なんて一日の反省をしてる。ただ最近やっと二言三言言えるようになりチッとはましになったカナ。
世の認識ではしゃべらない人は陰気で暗い、というのが一般的だと思うがソレは違う!と断言する。自己表現というのはしゃべる以外に絵や歌や書くコトや様々なやり方がある。そこんところを認識してないヤカラが多い!だからワタクシはこの文章書きに向いてる、とまでは言わないが文章でしゃべってる、というコトである。まワタクシもそーだが普段しゃべらない人がメールだとみょーに饒舌だったりするてあるでしょー。そーいう人は普段も考えは持ってるのだ。ワタクシは人というのは考える量、というのはソレほど変らないと思ってる。ただソレが目に見えて表現されてるかどーかだけの違い、だと思う。一番簡単なのは普段しゃべらない人が何かの話題になるとセキをきったよにとめどもなくしゃべりだす、という場面あるでしょー。その人はそのとおりしゃべるのが嫌いなわけじゃなく、むしろ好きなんである。
とまあ自分の弁解もしつつ(笑)、しゃべるのがヘタがゆえに言葉やコミュニケーションを追求するのだ。コレが本格的となったのはネットをやり始めてからである。ネットというのはまぁこのように基本的には「文字」でしか表現できない。相手の「今」が目で見て察するコトができない。目の情報がない。文字だけがドーンと表面に現れてるがゆえに相手の本心がイマイチ隠されてしまう。ソコで「誤解」が発生する。相手がまだ自分の知ってる人ならまだ「コレはこーいうコトを言ってるんだろな、、」と推測する(あくまで推測でしかない)コトができるが、こゆネットでは相手がナニモノか分からない場合がほとんどなので誤解の可能性がより多くなる。文字自体の情報しかない。じゃあその「文字」が100%確実か?と言ったら、ワタクシは人間自体が不完全なんだから人間が作り出すモノなんて完全なわきゃ無い、という認識があるので、文字なんて、言葉なんてその最たるモノと思ってる。
言葉というモノは辞書的な意味はあるが、1つの言葉について人それぞれの認識がある。ソレは言うならば1つの容器があり「ナニナニ」というラベルが貼ってあるのだ。ただし人によって中を満たすモノに違いが出てくる。分かりやすく言うと「ウーロン茶」とラベルに書いてあり、その人はソレをもちろん「ウーロン茶」として飲んでるんだが、ある時他の人が飲んでみたら「コレ、麦茶だよ」「えー!?」みたいな。指摘される分にはまだいいんである。途中で気が付けばいいが、気が付かないで飲みつづけてる場合もある。つづく。