『アンという名の少女3』を観終わって。
やっと録画してた『アンという名の少女3』(略『3』)を観終えたので、思ったコトを書いてみる。
『2』から間を置かず引き続き放送された『3』。途中、北京五輪番組による休みをはさんで先週放送を終えた。一部では『4』の製作を求める声もあるらしいけど、ワタクシ個人としては「まー今回で終わりでもいいかな」という気もしないでもない。正直7話8話あたりで中だるみというかちょいマンネリを感じたからなー。復活祭だナンダカンダで何かにつけみんなで集まってはわーっ!!て騒ぐ絵面ばっかだったじゃん笑。もちろん『4』作るんだったsら観るけどさ。
この『3』は『2』から引き続き「人種差別問題」が主題に取り上げられた。『2』よりも新たに強調された形だ。男女の性差別問題の象徴的キャラとしてのステイシー先生、同性愛者の象徴的キャラとしてのコールとジョセフィン・バリー夫人、黒人差別問題の象徴的キャラとしてのバッシュ(セバスチャン)、そして先住民族差別問題の象徴的キャラとしてのカクウェットら、原作には出てこないドラマオリジナルのキャラクターの登場や、現在も続く問題の象徴として新たなキャラ設定がなされたキャラクターたち。そしてダイアナとグリーンゲイブルズで働いてるフランス人である使用人ジェリーとのロマンスから見る階級の壁。コレら取り巻く様々な問題の間を縫うようにアンは自分のルーツを探求し、ギルバートとの恋仲を深める。
コレだけある意味しつこく作品を通して↑に上げた諸問題を取り上げるのは、そもそも物語の主人公であるアンが「赤毛でそばかすだらけの顔で孤児」という差別される側の代表として描かれたキャラクターと解釈されたからだ。ソレがこの『アン』シリーズ。ソレだけ彼の地に横たわって現在にまで続いている差別問題が、あちらの人々のココロに根深く根付いてるコトの表れに他ならないと思う。アンの時代から今の現在に至るまでの間もまだ十分には解決できていないというコトだ。問題が根深いからこそ、このように声を上げ続けなければならないという、半ば使命感のような思いが作品を貫いている。
ステイシー先生の男まさりのおてんばぶり、「女はこうでなければならない」の打破や、コールはある意味「その道のセンパイ」であるバリー夫人の下へと保護を求め、黒人であるバッシュは白人であるギルバートに受け入れられるトコロから始まって、アボンリーで生活するようになり家庭を築き、と解決とまでは行かないまでもソレゾレが自分の居場所を見つけるコトで、なんとなくメデタシメデタシ的に落ち着いた。が、先住民族キャラとしてのカクウェットはいまだに寄宿学校から抜け出せずにいて、両親もなすすべなく、お互いがお互いの存在を認知できる距離にい続けるしかできない。しかしバッシュのお母さんいわく「人は歩み寄れる」。たしかに歩み寄った結果、衝突してしまう可能性もあるけど、いつの日かお互いが歩み寄れるというコトを信じるしかない。ソレが希望というモノだから。
最終回とその前の回はギルバートが主人公だったように思える。果たしてギルバートはアンを選ぶのか、ウィニフレッドを選ぶのか。結果的にギルバートはアンを選んだのだけど、ソレはなぜか。
ウィ二フレッドを選べば将来の保証がされる。いわゆる上流階級に属し、金も名誉も得るコトができる。たぶん彼の未来はずっと安泰だろう。ただソレは逆から見れば枠にはまった生き方しかできないというコト。ギルバートは黒人のバッシュとも仲良くなり「家族だ」と言えるくらいに差別心が無い。しかしウィ二フレッドを選べば、そういうワケにはいかない。ダイアナとジェリーがそうだったように、おそらくバッシュたちと距離を離され、上流階級らしい振る舞いをしなければならない。上流階級のコミュニティーに属し、上流階級の仲間とつきあわなければならない。本来の彼とはかけ離れた窮屈な自分を演じなければならない。
階級の壁は強固なのだ。ダイアナでさえ諦めた。だからこそ汽車の車内でギルバートに気持ちをまくし立てた。私とジェリーの間にはどうしても越えられない階級の壁がある。でも、アンとギル、あんたたちの間には何もないじゃない!どうして2人が諦めるのよ!と。2人の間を隔てるモノは何もない。ただどっちもじっとしてないから笑、すれちがっているだけだ。
アンは自分が差別される側にいたからなのか、アンもアンで彼女自身に差別心は無い(ホントなら人を見下すようなひねくれた考え方をするようになってもおかしくはないのだけど、、)。
おそらくギルバートは揺らめく炎の前で舞っているアンを見て「自由」を感じたはずだ。「この人となら、どんな困難も乗り越えて行ける」と。たしかにアンを選べば、どうやら将来の保証も無ければ安泰でもなさそうだ。つつましい生活になるカモしれない。むしろ毎日何かしら問題を持ち込み抱え込むような波乱万丈な人生になるカモしれない。しかしアンの持つ困難に立ち向かい乗り越えていける、人としてのたくましさ。そして自分と同様、誰に対しても差別を持たない心の持ちよう。コレさえあれば、困難を乗り越える勇気と知恵と行動力を持ってるならば、毎日のちょっとした冒険はむしろ人生におけるスパイスとなり、ワクワクできる希望となる。何よりこの人となら、自分が自分らしく生きるコトができる、、。人生に必要なのは、自由と希望とたくましさ、そして自分らしく生きられること。
とギルバートはあのシーンで瞬間的に(彼の無意識的にも)悟ったのではないだろうか。コレがギルバートがアンを選んだ理由、だとワタクシは思っている。