『アンという名の少女』を観終わって。
news.yahoo.co.jpどうも昨日深夜の2時ぐらいに最終回の再放送をやってたみたい。ワタクシは本放送を録画してたのを今週の月曜に観たのだけど、大阪都構想の選挙速報の特番で延びて、55分遅れで結局は放送したのだけど、延びたから見逃した人が多かったよう。当初は再放送しない予定だったようだけど、たぶん「再放送してくれ」という要望が多かったんだろうな。でも今回の再放送もゲリラ的に放送したから、また見逃した人もいたカモしれない、、。
ちょうどMXで放送してたアニメ『赤毛のアン』の終盤とこのドラマと時期的にカブってたのもあって、両方とも鮮明な記憶で比べるコトができる。ワタクシは両方とも楽しみにして毎週録画して、両方の『アン』があと数話で終わる、という段階になってから、今週はアニメのほうを1話観て、来週はドラマのほうを1話観て、という具合に大事に少しづつ味わう感じで、別れを惜しむ感じで観終わった。
コレから書くコトはネタバレも含むので、見逃した人や観ようと思ってるけど観てない人は読まないほうがいいだろう。順不同で思うがままにつらつらと書いていくコトにする。
ドラマの『アンという名の少女』は賛否両論あるようで、物議を醸してる。賛否といってもどうやら「否」のほうが多いらしく、「否」の人の意見としては「原作からかけ離れてるのでガッカリした」という意見が多い。たしかに比べてみたら全くちがう。ワタクシはアニメの『赤毛のアン』が好きなくせに原作は読んだコトが無いので、この機会にパラパラ読んでみたのだけど、アニメのほうはかなり原作に忠実に描かれてるよう。ソレに対してドラマのほうは、ドラマオリジナルのエピソードも多く、最終回に至ってはほぼオリジナルだ。ドラマ否定の人からすれば、原作の豊かで宝物のような世界観を壊されたくないという意味で否定されてるようだけど、ワタクシはソレほど否定でもなく、ドラマはドラマで楽しめた。キャラクターや設定だけを借りたパラレルワールドもの、『エヴァンゲリオン』に対して『ヱヴァンゲリヲン』のように別物として考えたほうが分かりやすいカモしれない。
アニメの『赤毛のアン』は一年間50話という長い時間をかけて描かれてたので、忠実に原作に沿うコトが可能だったとも言えるし、ドラマはシーズン1で全8話というあまりにも短い尺なので、原作に忠実にはできないというのは致し方ないという気はする。1話目から突っ走りすぎな展開ではあったけど、ソレが顕著になったのは7話で、明らかにつめこみ過ぎ、ダイジェストすれすれになっている。
ソレにしてもあまりにいじくり過ぎた、とも言える。『赤毛のアン」を期待してた人からすれば「失望」の声が多いのもうなずける。新たな枝葉のエピソードは挿入しつつも、メインのストーリーはそのまま改変しないほうがよかったのでは。でもソレはもしかしたら「あえて」そういう話にしたのカモしれない。あまりに『赤毛のアン」といったらあの話、「自然豊かで、アンは天真爛漫で、子供の教育にも役立つような、綺麗でキラキラした世界」みたいな定型をぶち壊した『アン』が1つぐらいあってもいいのでは?という、そういった確信犯的な狙いがあったのカモしれない。だから日本で製作されたワケではないけど、ドラマのほうの『アン』は『暗』と言い換えてもいいのカモしれない笑。
ひょっとしたらこの『暗』(笑)は最終回ありきで、逆算してアンのキャラが設定されたのカモ、ともワタクシは勘ぐっている。「マシューが心臓発作で(ココはアニメと同様)倒れ、思うように動ける状態ではなくなり(アニメではマシュウは死んでしまうが)、借金を返済しなければグリーンゲイブルズを手放さなくてはいけない」というトコロから、マリラとアンがなんとかお金を工面して、という「お金」が重要になり、その金策のために「大人を言いくるめるぐらい口が達者でしたたかな」というアンの性格が設定されたのカモ、と。
ソレにしてもこの最終回が、原作及びアニメとは決定的にちがう。
マシューが死ぬ死なないというのはまぁいいのだけど(よくないか笑)、ワタクシが「決定的」というのは、アニメ『赤毛のアン」ではアンは「グリーンゲイブルズを失いたくない」というのに対し、『アンという名の少女』ではグリーンゲイブルズやモノに対する執着が全くといっていいほど無く描かれているコトだ。マリラとマシューがいればモノなんかどうだっていい、グリーンゲイブルズでもなんでも売れるモノは売ってとにかく換金して、という人が何より大事で、モノに対してはドライに描かれているのだ。コレには少しばかり閉口した。結局物より金なのか。でもリアルを考えれば、まずは先立つモノ=お金が無いと自分たちが生きていけない。ソレは分かるがあまりに「現実」なのである。
アニメのアンはマシューを失ってグリーンゲイブルズを手放さなくてはならないカモという状況になっても、アンは奨学金を辞退し教師になって、マリラのそばに寄り添って暮らしていくといういわゆる「曲り角」を楽しむ、という想像癖のあるアンがその自分の想像によって自分自身を救う、という展開だったけど、ドラマのアンはその想像力が全く役立たなかった。想像どころではない状況、ある種「現実」に負けてしまったのだ。ココで視聴者はあまりに「リアル」を突きつけられる。結局窮地を乗り切ったのは表向きは「人」であり、裏的にはその「人」たちによる援助(=お金)である。「お金は人と同じぐらい大事だよ」というコトを暗に言っている。たしかにそうだけど、、ゲンメツではある笑。
そのほか『赤毛のアン』では描かれていないエピソードが、この『アンという名の少女』では描かれている。ざっと思い出すだけでも、ギルバートの家庭の事情であり、マシューのロマンスであり、コレはアニメでもちらっと出てくるけどマリラとギルバートの父親がかつて恋仲だったエピソードがフィーチャーされてたり、ルビーの家が全焼したり、ギルバートの位置にビリーという新キャラがいたり、カスバート家の使用人であるジェリーが子供だったり、とアニメとの差異も多い。
村岡花子嬢翻訳の原作を読むと、当時のフランス人は使用人とか手伝いとかに使われてたらしく、原作ではジェリーのコトを「フランス人の坊主」とマシュウは呼んでいる。その点だけはアニメでは改変されてジェリーは青年に置き換えられてるけど、たぶん「子供が働いてる」というのが『赤毛のアン』的にはあまりよろしくなかったのカモしれない。やっぱりとくにアニメの『赤毛のアン』は子供が想定の視聴者でありターゲットだったと思うので、教育上よろしくないシーンは描かなかったのだと思う。
そういう意味ではアニメの『赤毛のアン』でさえも、ある種の「偏り」があったとも言えよう。人種差別やお金、アンの年頃ならではの性の問題、男女平等の問題、宗教の問題など陰の部分、闇の部分が意図的(なのか)に排除、原作の清廉潔白あまりにキレイキレイな世界、に描かれてるからこそ、反作用的反動的に生み出されたのが『アンという名の少女』なのでは?と。原作『赤毛のアン』は当時の暗部が、闇が描かれてないじゃないか!という反発。このドラマによってある種の「バランス」を取ろうとしているのカモしれない。
でもソレにしては中途半端かな、とも思ってる。男女平等のエピソードとか時代背景的にちょこっと描かれただけで、そういった問題が最終回に向かって何かの伏線につながってるのか、回収されるのかといったらそのようなコトは無かった。もしかしたらシーズン2以降でそういった問題がまた出てくるのカモしれないが、このシーズン1ではハンパに終わったと言わざるを得ない。やはり詰め込み過ぎなのだ。
そして最終回で、ジェリーから馬を売り払ったお金を奪い取った2人の男がグリーンゲイブルズに下宿しに来るトコロで終わる。コレはまったく原作に無いドラマオリジナルのエピソードで、もはや『赤毛のアン』ではない笑。
でも今回の再放送の件といい、賛否はあっても評判はよかったのカモしれない。となると例えば1年後1年半後2年後ぐらいに、もしかしたらシーズン2の放送があるのカモ、、と密かに期待している。