過去があるから今がある。石(意思)が積み重なってココにいる。
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「作品に罪は無い」について。

とあるミュージシャンであり俳優が麻薬使用の容疑で逮捕され、その人の音楽作品や出演していたテレビ番組、今後の映画公開などの削除や自粛などの対応に追われてるらしい。こういうコトがあると決まって「作品に罪は無い」と言う人が出てくる。こういうコトを言われると、なんとなくサラっと受け流すというか、ソレはソレでなんとなく納得して、するっとノドを通り過ぎてしまうけども、実は若干の違和感が無いでもない。今回あらためてこの言葉について、意識して咀嚼してみようと思う。書きながら考えるので、結論が出るわけではないというコトを先に断っておく。

「作品に罪は無い」、じゃあ逆に作品に罪が「ある」状態、という方向からアプローチしてみる。

音楽でも本やテレビでもなんでもいいが、たとえばある小説をきっかけに、またはヒントに、またはそのまま模倣して犯罪を犯した人がいたとする。たぶんそういう人も過去にはいただろう。この場合、その「小説に罪は無い」と言えるだろうか。小説を書いた作家に罪は無いと言えるだろうか。こちらの方がよっぽど「罪がある」と言えないだろうか。自分が過去にこういう罪を犯したとかの手記も本として売っていたりする。そういう本は第二、第三の同じような犯罪を助長してると言えないだろうか。テレビニュースでの放火事件の報道やバイトテロの報道、こういった報道は新たな放火やバイトテロのきっかけにならないだろうか。かえって助長してるとは言えないだろうか。

テレビなら視聴者である我々の側への抑止のためや、注意喚起、危険だから近づかないでなど、こういうコトをしたら逮捕されるよとか実名で報道されるよとか、いろいろな意味合いがあると思われる。視聴者である我々、本なら読者である我々を「信用してる」から、こういったニュースであり、本を売ったりしている。もちろん「表現の自由」という権利もある。作家や記事を作った人以外にも放送局や出版社の多くの人たちの許可があって、世の中に公開されている。ソレはタテマエであって、本音はテレビなら「数字が取れる」だとか雑誌や本だったら「インパクトがある」とか「売り上げが良いはず」とか。その本音とタテマエのせめぎあい、だとも言える。そういうコトを考えてみると「罪は無い」と言い切れないんじゃないか、とも思ってしまう。常にコインの表裏で、何がきっかけになるか分からない。

ナイフに罪は無い。ナイフを作る人は「人を傷つけてはいけない」という思いで作ってるカモしれない。使う人を信じて委ねている。道具は単なる「物」である。でも使う人によって人を傷つけるコトもできるし、様々な物を切ったりして役に立つコトもできる。場合によっちゃ「ナイフがあったから命が助かった」というコトもあるカモしれない。もちろん場合によって、作品によって、個々のケースによってさまざまだろうし、今回は犯罪というかある意味「病気」なので、容疑者が時間をかけて治療をしていくしかないと思うが。

「作品に罪は無い」と言った人の気持ちも分かる。あえて言い切るコトで、振り切った発言を投げかけるコトで自分の思いを伝える、振り向かせるという意味合いもあると思うし、言った人は同じミュージシャンというクリエイターでもあるから、その人の作った創作物(この人の場合は音楽)を受け取る側を信じてるという意味も込められている。信じていなければ作ってられない。強く言い切るコト、言葉の強さ=(その人にとっての)受け取る側への信頼の強さ、なのだと思う。たぶんこのコトに疑問を持ってたら作ってられない。というか常に葛藤してるんじゃないだろうか。その葛藤を振り払う意味もあるんじゃないだろうか。だから強く否定する。世の中に投げかけるというコト自体、責任を伴う。もし自分の作品で何か起きたら自分が全責任を負う。作品にまつわる全てのコトを自ら請け負う、と考えるから、そういった思いがあるから言葉が強くなる、言い切るのだと思う。そのコトはものづくりに限らず、表現する全ての人が考えなければいけないコトではないだろうか。削除や自粛というのは、その責任の放棄につながると言えないだろうか。ソコまでは想定していない、キリがないから責任を負えないというコトだろうか。「製造者責任」という言葉もある。何かしらの工業製品は当てはまるが、音楽や本はソレには当てはまらない、除外されるとは言えない。何かしらの音楽を聴いて、本を読んで、犯罪に手を染める人もいれば、ソレらによってそういった自分の中の欲望がある程度解消される昇華される(疑似体験的に)、というコトもあるカモしれない。

「業」であり「欲望」ともいえるかもしれないが、たぶん何かに対しての若干の罪(この場合「犯罪」ではなく「原罪」的な罪)の意識を持ちながらも、ソレでも表現していく、その気持ちが勝ってしまうから、その葛藤が常にあるというのがごく普通の「感覚」なのではないだろうか。だから言い切りに違和感を感じてしまうのカモしれない、とワタクシは思う。

今回の場合はもちろん「作品に罪は無い」という言葉は当てはまると思うが、モノによっては「作品に罪がある」、その可能性が高い場合もあると思う。繰り返しになるが、犯罪を犯した人が自供で「本を真似してやった」や「テレビのニュースを見て模倣した」などは、そのもとのソースである本やニュースに犯罪性はまったく無いと言えるだろうか。「作品に罪は無い」という言葉は全てに当てはまるワケではない、というコトだと思う。